音楽が好きで好きなバンドが居て、それが人生に影響与えられることってよくあるとおもう


キズが福島・広島・長崎をまわった去年夏と先日の2本のツアー
「宿望」と「切望」

ただ単にツアーの1ヶ所としてここがあるわけじゃなく
彼らは意味があるからこんな遠い場所にもライブをしに来てくれたわけで。

 

スケジュール見た瞬間は単純に広島が入ってることに喜んだけど
でも何故3本しかないツアーに広島があるん???って改めて見て3箇所の意味を察して衝撃走った。
彼らは「ヒロシマ」に来るんか!と。


だからある種の当事者でもある地元の人間と言えど
迎えるからにはそれ相応の心構えを持たされてしまいました。

 


去年は春に広島の原爆資料館がリニューアルされたタイミングもあって改めて見に行ったりとか、いずれはと思ってた長崎を「宿望」ツアーで訪れる機会を得て、あちらの資料館にも行った。

郡山へ行くのは遠くて断念したけれど…

 

とはいえ福島(白河)はriceFC旅行で震災後も何度か行った中で
ほんの少しだけど施設のスタッフさんとそういう会話をしたことあって。
未だに旅行の想い出と一緒に印象に残ってたりはする


その後も来夢さんがインタビューで“「知らなかった」では済まされない”と語っていたのが頭の片隅にずっとあって、
ここ数か月選ぶ本が歴史現代史、社会情勢の言論や民俗学的な方向のものが増えてる。

 

 

私のそういった知ろうとする動機は

キズが提示してるものをできる限り深く受け取りたい、とか
来夢さんが言ってることや歌詞で描いてるものを少しでもちゃんと理解したい

というのがいちばんなんだけど。
全然付け焼き刃だけど。

 

それでも気づいたこともなかったこととか
授業で聞いた気がする程度だったこととか
知らなかったことを反省することがとても多い。

 

 

 

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被爆地に住む人間からすれば
「黒い雨」ってタイトルの曲が出てきたのももちろん衝撃で、
かつ、公開されたジャケット見た時に

 

それ!それです…!って思って。

 


犠牲の上にある平和

 

被爆の血筋持って爆心地近くで生きてたらその感覚は
自分が住んでる場所の歴史を学ぶ子供の頃から常に隣り合わせです。

 

目の前を流れるこの川にどのくらいの人が飛び込んだのかとか
鎮魂のコンサートが開かれた河原は遺体を引き上げ焼いた場所だとか、
投下の瞬間を目撃した画家が描いた“リトルボーイ”の絵とか…
空を見るとその絵を思い出す。
川のほとりを歩けば想像する。
息をするように。


そもそも自分の生活圏すべてがそういった場所で、
焼かれた人の血も骨も草木の灰も壊れた街の残骸も
足元のこの土に混ざっているわけで。


(見えないものを感じてしまうひとは近づけない場所があると、たまに聞く)


伝え聞いた中での想像の上の恐さは死生観を形成して
自分が生きる上での指標でもあったけど
感覚的すぎて消化不良で気持ち悪いまま持っていて。

 

だから、この感覚を言葉にして歌う人がまさかここに居た…!って思ったんよね。

 


確かに救われた。

 


説明的ではなく、楽曲とメイクや衣装と凄まじい気迫という形で投げかけてくる。
それもまた良きで
投げかけられたものは聴き手それぞれが受け取り、また、自発的に考えてゆくもの。

 

 

これ、ほんと、そう。聴き手としても考えてしまうよ。

 

 


出会った時はそういう思想を持っていて
将来そんな曲が出てくるなんてわかるはずもなかったけど

(もちろん歌や歌詞だけじゃなく楽器隊の演奏力や表現力なくして好きにはなれないし)

だからこそ何かを感じてこのバンドに惹かれたのとか
ちゃんとファンし始めたのがこのタイミングだったのとか
そういう流れの中にいたのかなーって思ってみたりしてます。